第16回定例会の会場が変更されました。
旧: 早稲田大学 8号館 808号室
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新: 早稲田大学 9号館5階 第2会議室
定例会の案内をご覧ください。→[こちら]
2015/08/25
2015/08/25
下記のように、第16回 場の言語・コミュニケーション研究会定例会を開催いたします。ふるってご参加ください。
日時 平成27年9月8日(火)午後1:30~午後5:30
場所 早稲田大学 9号館5階 第2会議室
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発表(1)
発表者 大塚正之先生、岡智之先生
テーマ 「場の観点から認知を捉える―主観的把握と客観的把握再考」
発表(2)
発表者 櫻井千佳子先生
テーマ 「語りの「場」のコミュニケーションにみられる文化とは」
発表(1) 要旨
これまで、しばしば、英語は客観的に事態を把握するのに対し、日本語は主観的に事態を把握するため、英語は客観的に表現することができるが、日本語は、なかなか客観的に表現することが難しい言語であると言われてきた。しかし、果たして、そのような理解は正しいのであろうか。客観的ということは、現象学的に見れば間主観的=共同主観的ということであり、多くの他者との認識の同一性によって基礎づけられるものである。そして、欧米人に較べて、日本人が他者との間において共有化された意識を持っていないということは考えにくいことであり、むしろ、逆に欧米に較べて、日本人は、他者との意識の共有化=共同主観性=間主観性は強い民族であり、日本語も、共同存在性を強く意識させる言語ではないだろうか。そうだとすれば、なぜ「日本語話者は<主観的把握>を好む傾向が強い。」というような理解の仕方が生まれるのであろうか。主観的な把握では、他者との意思疎通が阻害されるはずであるが、むしろ、日本語は、言わなくても分かるだろうという感覚の強い言語であって、決して主観的だから他者と通じないなどという事態は起きては いないのである。 例えば、Langacker(1990)は、(1)Vanessa is sitting across the table from me.と (2)Vanessa is sitting across the table.とを比較して、前者は客観的事態把握であり、後者は主観的事態把握であると述べる。また、池上(2006)は、川端の(3)「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」というのは主観的事態把握であり、Seidensticker の翻訳である(4)The train came out of the long tunnel into the snow country.は、客観的事態把握であると指摘する。しかし、よくみると、(1)は、ベネッサと私とがともにその場の中にいる情景をその場の外から見ているのに対し、後者は、場の中にいる私がベネッサがテーブルの向こうにいる情景を場の中において見ているのであり、両者は視点が異なるだけであって、決して一方が客観的、他方が主観的ということではない。どのような場所に視点をおけば、どのように見えるのかという点では、両者の客観性には何の違いもない。場の外に視点を 置けば、誰が見ても、(1)のように見えるし、場の中に視点を置けば、誰が見ても、(2)のように見えるのである。同様に、(3)は、その列車の中に身を置いていれば、誰が見ても、その情景が(3)と同じように見えるし、その列車の外から眺めてみると、誰が見ても、(4)のように見えることになる。 このように考えると、これまで「主観的事態把握」と「客観的事態把握」と呼ばれていた二項対立現象は、実は、主観的、客観的という差異性の問題ではなく、場を基盤としての内在的把握、外在的把握という差異であることが分かってくるのである。また、これに関連して、日本語は主観的に事態を把握するので、主語を「省略」するし、表現が「自己中心的」になると指摘される。これも、果たして本当にそうなのだろうか。日本語は、場に内在して表現をする。場の中では非言語的要素によるコミュニケートの可能性が高く、そのため、主語を言わなくてもコミュニケーションが可能になるので、もともと主語を表示しないのであって、別に省略しているのではない。省略するのは、そこに文脈があるからだと言われるが、文脈があるかないかはどの言語でも同じである。主語が省略されているように見えるのは、文脈から生じるのではなく、場の内在性から生まれるのであると考えた方が妥当である。また、日本語は自己中心的であるというのも、場の内在性から生まれると考えるべきである。場の中では、自我というものを消去して、モノやコト自体になって物事を見るのであって、決して自己中心的になるのではない。むしろ、自己が消し去られるので、あるがままの事態が表現されるのである。反対に、場の外から表現する場合、どうしてもモノやコトから離れて主語というものを設定しなければ、モノやコトを表現することができないので、主語を「省略」することができなくなるのであって、日本語は、無我的表現であるのに対し、英語は自我的表現なのである。決して、主観的、自己中心的であるが故に主語が省略されるのではなく、場に内在的であるが故に 無我的になり、主語に言及する必要性が消滅するのである。 このように考えると、外国人が日本語を学ぼうとする場合、その外在的視点を内在的にすることによって、よく日本語を習得できるようになるのであり、逆に日本人が欧米の言語を学ぼうとする場合、その内在的視点を外在的にすることによって、よりよく外国語を習得できるようになると考えることができるし、また、なぜ、日本語が、これまで主観的であるとか、主語を省略するとか言われてきたのかも、統一的に説明することができるのである。
参考文献 Langacker,W.Ronald (1990) ‘Subjectification’,Cognitive Linguistics1. 池上嘉彦(2006)「〈主観的把握〉とは何か」『月刊言語』2006 年 5 月号
発表(2) 要旨
本発表では、語り(ナラティヴ)においてみられるモダリティ表現を分析することにより、語りという「場」において、語り手、聞き手、語る内容の関わり方、つまりコミュニケーションがどのように変わっていくのかを考察する。語るという行為では、ニュートラルな状態においては、語り手、聞き手、語る内容の関係は、語り手が語る内容を客観的に把握し、それを聞き手に伝える、という三角関係にあると言われている(Toolan, M. J., 1988)。しかし、南(2009)でも論じられているように、語り手が語る内容に没頭している状況では、臨場感あふれる語り方として「ナラティヴ現在」がみられる。この状況においては、語り手、聞き手、語る内容の関係は三角関係にはなく、語り手が語る内容に感情移入をしていると指摘されている。本発表では、「ナラティヴ現在」も含め、「~のだ」、「ね、よ」等の終助詞、「です・ます」の敬体などの語り手の心的態度を表すモダリティ表現を分析することにより、語り手が語る内容に没頭している状況では、語り手と語る内容は一体化して「場」を構成し、それを聞き手が外からみているというコミュニケーションであること、一方、そうではない状況では、語り手と聞き手と語る内容の三者で語りの「場」を構成するコミュニケーションであることを分析する。考察では、「場」の概念を導入することによって、語る場面において、語り手の視点が過去におきた事態の中に置かれたり、外に置かれたりする状況を行き来することをデータからの例を用いて説明する。そして、その説明により、語り手、聞き手、語る内容のコミュニケーションが、語り手の視点によって、動的に変化をすることを明らかにする。さらに本発表では、日本語と英語の語りにおける三者の関係性をみることによって、文化固有性の枠組みを超えた、文化に共通の「場」の概念の存在を論じたい。
以上